昭和54年9月29日 朝の御理解
御理解第4節 「此方金光大神あつて天地金乃神のおかげを受けられるやうになった此方金光大神あつて神は世に出たのである神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である金光大神の言う子とに背かぬやうよく守って信心せよまさかの折には天地金乃神と云ふに及ばぬ金光大神助けて呉れと云へばおかげを授けてやる」
今日はその神からも私共からも恩人と言われる教祖金光大神のお誕生の日でございます。生誕の日です。その恩人である教祖金光大神様がね。お喜び頂けれるような。言うなら御恩を頂いてせめて御恩返しの万分の一でも出来るような心掛けを今日は使わせて頂くと言う事がとりもなおさず、金光大神への恩返しと言う事になるのぢゃないでしょうか。
日頃はどうぞ金光様お願いします、お願いしますとお取次ぎを願うてばっかりおるのでございますから。せめて今日一日位は言うならば神からも氏子からも双方からの恩人と、もう確かにその通りです。ですからその恩人と言うだけではなく思うだけではなく、その恩人に対する言うならば御恩返しをさせて頂く。 今日と言う御誕生の日がなかったら、そう言う有り難いそれこそ、これはもう私の事ですけれども。今日の私がとてもあろうとも思われないほどしの、言うならばおかげを受けておるのであるから、何とかして心をこめて今日の生誕祭をいよいよ神様も喜んで下さり、金光大神も喜んで下さり。しかも私共の喜びともなるほどしの思いをこらしたいと言うふうに特に今日は思うんです。
昨日は竹葉会でしたから、皆さんのいろいろ発表を聞かせて頂いたんですけども。福岡の秋永良江さん、文男さんの家内ですが、発表しておりましたが。隣に福岡の伊藤さんがおられました。伊藤さんがもうそれこそ感動いっぱい感激いっぱいのお話をなさいました。 その話を聞いて、あんなふうに有り難くなれたらさぞ良かろうと思うと。先日も丁度たまたま霊祭の時に、その伊藤さんの横に座らせて頂いとりましたが、もう身体を震わせて感動なさる。何があんなに有り難いのだろう。あんなに有り難くなれたらさぞよかろうと思うけれども。分かっちゃおるけれども有り難いものが湧いてこんと言う話を頂きました。
それで私、それに説明を加えたんですけども。ならその感動いっぱいで話された伊藤さんが、どう言う事を話されたかと言うと。御霊祭の時に何をお供えさして頂こうかと思うたら果物がよかろように感じた。そして果物屋にまあ、あれこれと霊様のお喜びなさるような果物を取り集めて、お金を払わせて頂いたら四千八百円でございました。もう途端に感動が湧いてまいりましたと言われるのです。 四は死です。八です。言うなら死んだ人達、言うなら霊様が広がりに広がる、大きな親先生のお取次のおかげで今日はいよいよ喜んで下さる助かって下さってある。またそれ思うたら感動したと、そのお供えを持ってまいりましたら、丁度すぐそこで秋永嘉朗さんが神饌の御用頂いておられる方に、もう直接あのお渡しした事もまた有り難かった。
そしてお祭りが段々進んでまいりましたら、私のお供えをさせて頂いた果物が霊様には一つも上がっとらんかったけれども神様の方へ盛り付けがしてあった。それを見てまた感動したと。先生のお話の中に、もう本当は天地の親神様だけ拝んどきゃ、霊様には拝んでおらんでも霊様がおかげを頂くと言うお話を聞かせて頂いたがね。 私の例えば霊へとの思い出はあったけれども、神様がしかもお三宝の上に取り立ててお受け下さったと思うたら。またそれが感動でしたと、まあ感動づくめのお話をされたんです。それを聞いておって、なら良江さんがお話を致します事がです。この前の霊祭の時にもそうだったがね。もう本当に側におってもうあの驚く程の言うなら感動ぶりであったが、ああ言う喜びがこち湧いたらどんなにそれこそ有り難いだろうかとまあ思うけれども、その感動が湧かない。 どう言う信心すりゃ、ああ言う喜びが触れられるだろうかと言う事を発表しておりました。それで良江さん、あんたが例えばんならね。伊藤さんの半分でも三分の一でもよいから、あちらの真似をさせて頂いたら必ず感動が湧くよと言うて、昨日の朝の今朝もお参りになっとるでしょうか。あの麻生さんが毎朝、昨日聞かせて頂いて随分まわったところにおられる、ある方がここ二、三日一緒にお参りをなさいます。
もう昨日ここへ見えられてからも、私の顔を見るなりに。もう今日親先生のお話を頂いとったらもう感動が湧いて湧いて。もうどうにも仕様がない程しに、それこそもう本当に、もうそれこそ涙をいっぱい、涙をこぼしながら今日有り難かったと言われるんです。
だからその話を昨日良江さんだけぢゃない、皆にも聞いてもらったんですけれども。それは○○さん、あなたの感動ぢゃないですよ。神様の感動ですよとね。言うならば伊藤さんの感動も、言うならば伊藤さんの感動ではない。霊様の感動であり、神様の感動がこちらに照り返ってくるんですよとね。そこには神様が喜んで下さるような働きが出来ておるから、一生懸命の思いをそこにこめるから、喜びが頂けるんですよと、まあ言うて。ここであのお供えのお初穂をお取次させて頂いてから成程、これで今日は感動が湧いてるんですよと。もうその方が一生懸命の思いの御造営の費のお供えがありました。
しかも沢山なお金を言うならお供えしてね。それこそ不浄がついても、よかろうと言う位に言うならね。金銭はそれこそ命であり宝である。それをお供えして言うならば、喜びが湧くと言うのは信心の世界でなからなければ味わう事が出来ない。成程今日は、このお供えがあなたの今日の感動だったんですよ。
今日はお供えさして頂こうとその神様が喜んで下さる事に間違いのない。言うならばおかげを懐にしてから。今日の御理解を頂いて下さった。だから今日の言うならば親先生の御理解がそんなに有り難かったんですよ。やっぱり神様の感動が、喜びがあなた照り返って来るのですよ。その喜びが徳になるのですよ、力になるのですよと言う話を昨日お取次させて頂いた話を昨日させて頂いた事でしたね。
不思議です。本気で一生懸命の神様が喜んで下さる為の思いをそこにこらしたら、必ず感動がつきものです。それは神様の喜びが照り返ってくるのですね。言うならば、こちらから手まりのようなものをです。向うの壁にポ-ンとこう勢いよく投げれば投げたほど勢い良くまたこちらにポ-ンと返ってくる道理と同じですね。
そこでです。今日は今も申しますように、私共の恩人と言われる神様は、神からも恩人と言われる。また事実そう思います。そこでなら恩人金光大神が御生まれになった日。今日をそれこそ寿ぎ喜び感謝の御礼を真で捧げなけねばならんと言う事になります。 なら、そう言う事でいつも教祖の神様がそれこそ年寄りを大切にせよとね。と言う事を教えておられますから。言うなら生誕祭には必ずお年寄りをお招きして年寄りが喜ばれるような、喜ばれるようなと思いを凝らしてまあ、今日まで椛目、合楽を通して生誕祭には、そう言うまあお弁当等も作らしてもらったり。ならまた演芸なんかも見てもらったりしてまあ一日をお年寄りに喜んで頂こうと言う、まあ趣向を凝らすわけでございますけれども。
今日はあの、これは年々歳々その思いは募ってくるんですけども今日はいよいよ何かその思いが募って来て。只それをしたからだけで、なら本当に神様に通じ通うようなものではない。神様に金光大神が喜びを受けて下さるような喜びに、のお祭りにしなければならないと言うふうにまあ思わせて頂いたんです。
まあ今日から言うたら、おそまきでしょうけれども今迄はお年寄りの方が見えられたら見えられただけを、お弁当を作りましたし福引きもそうでした。けれども本当にお年寄りが喜ばれる事の為ならば行きたいけれども、お参りしたいけれども、もう都合があって来られないとか。またはもう年で動かれないとか、または寝込んでおられるとかと言う方達にも、これはまあ遠方はわざわざ持って行ってあげるわけにもいきませんから。 せめて、ここの村内の方達だけででも、見えない方にも福引きを作ろう。見えない方達にもお弁当を作らしてもらおう。そう今日はお願いしようとね。そしてなら病気で寝込んでおられる方達にも一つお配りしようと言うふうに、あのしきりに思わせて頂いとったら。それこそ私の心の中に、今迄とはちがった喜びが湧いてくるんです、思うただけで。
だから今日は皆さんもいろいろご奉仕して頂かんなりません。特に修行生の方達の場合なんかは、それこそあのう、それこそ手とり足とりするような気持ちでね。あのう今日の敬親会の方達に接してもらいたいと思いますし、またお炊事場の人達には今も申しますように幾らか大体数えれば分かる事でしょうから。あのうお弁当もそれだけ作って頂きたいし、また福引きの準備ももう出来て終わっとるならば、もう少し増やしてもらっておかげを頂いてもらいたいと言ったような事をまあ今日は思わせて頂きました。
どうぞ皆さん本当に教祖の神様が私共の恩人としての、今日のお祭りはただお祭りを仕えたから、年よりにだけでん弁当を頂いてもろたから、演芸を見てもろたからだけぢゃなくて。その内容にこめさして頂くもの。そして今迄足りなかった、思いの足りなかった事、お年寄りに喜んでもらう。
そりゃお参りをしてきた人だけに限定されると言ったような事ぢゃなくてお参りしたいけれども体の都合でお参りが出来ないと言ったような方達にも喜んでもらう。頂かなければ、喜んでもらうと言う事にはならんと言うふうに感じるんですね。
これはね、この事だけではありませんけれども。今日はそう言う生誕祭にお互いが御参拝のおかげを頂かれるでしょうけれども、そう言う思いをこめての今日生誕祭でありたいと思います。恩人ですね。その恩人の為に私共は何とかそこにおかげを頂かなければなりません。
日田の竹野さんが毎朝ああして参って見えますが、子供の時に水に溺れてそれこそ死ぬばっかりのところを或る方から助けてもらわれた。その方の事をお初穂に必ず命の恩人、命の恩人と言うてもう何十年間御礼のし続けておられます。しかし、本当に行き届いた方だと思いますね。
私共の場合はその位な事ではね。教祖金光大神様をです。それこそもう本当に命だけの事ではない。もうすべての点に置いての今日ある私と言うものを思うた時に、何とか喜んでもらえれる、おかげを頂かなければ相すまんと言う事に思うんですね。
そう言う一つのいよいよ有り難い、いよいよ意義の深い生誕祭にしたいと思います。皆さんもどうぞよろしくおかげを頂きますように。「どうぞ」